魔女の死

 痛まないところはひとつもなかった。
 棒や石ころを手にした人々が、四方八方からサリファを打ち据えている。慣れているとはいえ、まだ幼いサリファには随分とこたえた。
 けれども、サリファは声を上げなかった。声を上げても、誰も聞いてくれなどしないのだ。魔女めと余計にののしられ、打ち据えられるのがおちだろう。サリファは半ばあきらめて、人々に身を任せていた。
 このまま死んでしまっても、それはそれでいいのかもしれない。そう思えた。王子を迎える前に、穢れを除いておかなくてはならない。そんな理由で殺されるのは、自分にはよく似合っているようにサリファには思えるのだ。
 そんなときだった。
 不意に光が差した。
 人々が手を止めて、何者かに道を譲ったのだ。
 サリファは顔を上げた。
 誰かがサリファに手を差し伸べている。逆光で顔はよく見えない。
 けれども、優しそうな人だ、とサリファは思った。そうしてそのまま、気を失った。

   *

 ふとんが妙にやわらかい気がする。
 いやな夢を見たあとだから、余計にそう感じるのだろうか――
 サリファはもぞもぞと身を起こし、自分の感じていたものが気のせいではないことを悟った。
 サリファが寝かせられていたのは、今まで想像したことすらないような上等な寝台だった。天蓋がついていて、サリファが十人寝ても大丈夫そうなほどに大きいなんて、まるで王子様の寝台みたいだ。着せられている夜着もかなり上等で、こんなにたくさんレースがついている肌ざわりのいい服をサリファははじめて身にまとった。
 部屋だって、サリファが今まで住んでいたぼろ小屋とは比べようもないくらい立派だった。広さだって、あの小屋みっつぶんはありそうだ。敷かれている毛足の長い絨毯は歩けば身体が沈みそうなほどふかふかしていそうだったし、家具は造りのよさがひと目でわかった。
 いったいぜんたい、自分はどうしてここにいるのだろう。いくら考えても、サリファにはまったく思い出せなかった。
 記憶が途中でぷっつり途切れてしまっているのだ。村の人たちから殺されかけたことは覚えている。それを、誰かが助けてくれたことも。けれどもその先はというと、自分でもよくわからない。 「やっと起きたんだね」
 不意に声がかかる。サリファは振り返った。
 サリファが見ていたのとは反対側に豪奢な椅子があり、椅子よりもずっと贅沢そうなきらびやかな衣装をまとった、十三、四歳くらいの見たことのない少年が座っている。ひと目でサリファは彼が自分を助けてくれた人であることを悟った。優しそうな眼差しには見覚えがある。
 この部屋によく似合う綺麗な人だ、とサリファは思った。とくに綺麗なのはそのふたつの瞳だ。空のものとも湖のものとも違う、深い青い色をしている。珍しい黒い髪も白い肌もうつくしいけれど、瞳がやはり一番だ。
 自分のくすんだ金髪と鉛色の瞳を思い出し、サリファはため息をついた。自分は服こそ上等のものを着せてもらってはいるものの、随分みすぼらしく見えるに違いない。
「ありがとう」
 聞きたいことはたくさんある。けれども最初にサリファは言った。助けてくれたのがこの人であるなら、最初に言わなければならない、と思ったのだ。
「どういたしまして。もう、痛むところはない?」
「ええ……そういえば、どこも痛くないわ」
 あれだけ打ち据えられたのに、まるで痛みがない。あちこち触ってみるけれど、傷も残っていないようだ。どれだけ自分が眠っていたのかと、サリファはふと不安になった。
「大丈夫だよ。寝ている間に連れてきてしまったけど、君が寝ていたのはたったの三日だから」
「なら、あなたが治してくれたのね。ありがとう」
 サリファが言うと、少年は笑みをこぼす。サリファは首を傾げた。自分は、なにか笑われるようなことをしただろうか。
「君は魔法に慣れているんだね」
「ええ、そうよ」
 答えてから、サリファはあわてて口を押さえた。魔法に慣れているということは、魔女であるということだ。知られたら彼も、村の人たちと同じような忌まわしいものでも見るような目でサリファを見るのかもしれない。そう思うと、やはり切なかった。優しげな彼の瞳がかげるのを、サリファは見たくはなかったのだ。
「大丈夫。僕も、そうだから」
「あなた、魔法使いなのね?」
「そういうこと。だから、安心してかまわない。悪いようにはしないから」
「ええ、わかった、それは信じるわ。ねえ、でも、ここはどこなの? あなたは誰なの? どうして、こんなふうにしてくれるの?」
 安心したとたん、疑問があふれてきた。サリファは矢継ぎ早に訊ねた。
「僕の名はラティス。フィアラル王国の第一王子さ。視察に行った先で君を見つけて、つい気になって連れて帰ってきてしまったんだよ。ここは離宮にある僕の私室のひとつで、君がここにいることは僕と限られた部下しか知らない。さあ、僕は名乗ったよ。今度は君が名前を教えてくれる?」
「サリファよ」
 サリファはそれ以上なにも言えず、ただラティスを見つめていた。
 目の前に本物の王子さまがいるというのも驚きだったし、なにより、王子さまだというのに魔法が使えるというのは不思議だった。
 サリファはずっと、魔法の力を持っているために、村では魔女と呼ばれていたのだ。
 サリファはただ、けがをした人を癒してやったり、村に近づく魔物を追っ払ってやったりしていただけだった。すべてよかれと思ってしたことだというのに、人々はサリファを魔女と呼び、恐れ、腫れ物のように扱った。まるでそこに誰もいないかのように振舞った。
 だから、サリファは魔法使いはすべて、そういう扱いを受けるものなのだと思い込んでいたのだ。自分がこのような扱いを受けるのは、すべて魔法の力のせいであるのに違いない、と。けれどもラティスは、魔法使いであるのに王子さまであるのだという。つまり、自分だけが忌まわしいのだ。サリファはそう結論づけた。
「私みたいな人間を城に入れてもかまわないの?」
「平気さ。運命を感じたんだから」
「先見の力があるの?」
 サリファがきょとんとしていると、ラティスはさもおかしそうに笑い出す。サリファはむっとして、ラティスを軽くにらんだ。
「君はなにも知らないんだね」
「失礼ね。薬草のことだって知ってるし、鳥や獣のこともよく知ってるわ」
 咄嗟にサリファは言い返した。ラティスはなおも笑いつづける。サリファはすっかり不機嫌になってしまった。
 優しい人だ、などと思ったのは勘違いだったのかもしれない。気まぐれでサリファを助けただけであるのに違いない。
「ああ、ごめん、気を悪くさせたね。それにどうやら長居しすぎたみたいだ」
 さっと、ラティスは立ち上がる。そのまま去っていってしまいそうな気配に、サリファは腰を浮かした。いくら腹を立てたとはいえ、ひとりで取り残されるのは少し寂しい。城の中と教えてはくれたが、サリファにとってはまったく知らない場所であることに変わりはないのだ。
「君はまだ寝ていた方がいい。傷は治してあるけど、体力が回復してるわけじゃないんだ。すっかり治ってしまったら、あとはなにをしてもかまわないから、しばらくはそこでじっとしているんだ」
「どうして行ってしまうの? あなたは一緒にいてくれないの?」
「ひとりで心細いだろうけど、僕も君にかまってばかりはいられないから……時間ができたら戻ってくるよ。だからそれまで、大人しくしていてくれるね。それに、起きたばかりなのにたくさん話して、疲れてるはずだよ。今はゆっくり休んだ方がいい」
 言われてみれば、少し疲れているような気がした。それにどうも、お腹が空いているようだ。そうは思うものの、率直に言っていいものかサリファは迷った。危ないところを助けてもらった上、食事まで要求するのは図々しすぎるような気がした。
「どうしたの?」
 問われたそのとき、サリファの腹の虫が可愛らしい声をたてた。かすかな音ではあったけれど、ラティスの耳には届いたらしい。ラティスは口の端に笑みをのぼらせる。
「すぐに食事を用意させよう」
 サリファはうつむいて、耳まで赤くするほかなかった。



 出された食事を平らげたあと、一眠りして目を覚ますと、ラティスはまたそこにいた。どうして自分の起きる時間がわかるのだろうかとサリファは不思議に思ったが、あえて問わずにおいた。母にもそんな力があったのを、かすかにではあるが覚えていたからだ。
「今度はどれくらい眠っていたのかしら。寝すぎたみたい、ちょっと頭が重い感じがする」
「まだ疲れてるんだよ」
「寝疲れたのよ。ずっと寝てばかりいたら、身体がなまってしまうわ」
「なまってしまうと、なにか困るの?」
 言われて、サリファは言葉につまった。
 たしかに、困ることなどほとんどない。なまってしまうといっても、日常生活に困るほどにはならないだろうから。
 でも、どういうわけか、いけないような気がするのだ。怠けていてはいけないように思うのだ。
「どうしてかしら」
「自分でもわからないなんて、変なの」
 笑いながらも、ラティスはサリファに手を差し伸べる。サリファは一瞬、迷ったが、ラティスの手を取り、寝台から降りる。そうして、あらかじめ用意されていた布靴を履いた。絨毯は思っていたよりもずっとやわらかく、一歩踏み出すごとに身体が沈んだ。
「まあ、でも、少し動くのもいいのかな。行こうか」
「このままで?」
「そうだね、じゃあ、これを」
 ラティスが自分の上着を脱いで、サリファの肩に着せ掛ける。どうしてこんなことをしてくれるんだろう、とサリファは目をしばたたかせた。
 サリファはただ、はじめに着ていた自分の服に着替えようと思っていたのだ。こんな上等の服は自分には似合わない。けれども、それを言い出すのはせっかくの厚意を無にしてしまうようで、できなかった。
「おいで」
 ラティスはサリファの内心には気づかない様子で、サリファの手を引いて部屋を出る。サリファはどこへ行くのかも訊ねず、従った。
 薄暗い廊下をしばらく歩いて、外へ出る。廊下はひんやりとしていたのに、外へ出るととたんにうだるような暑さを感じた。どうやら、ここは中庭のようだ。背の低く、葉の多い薔薇がしげっている。いくらかほころびかけている蕾もあったが、ほとんどがまだかたく縮こまったままだった。
 サリファが今まで見たことのある薔薇といえば、すべて野いばらだったので、なんだか奇妙な感じがした。
「ここは、母の庭園なんだよ」
「女王さまの? そんなところに入ってしまって、叱られやしないかしら」
「大丈夫だよ。いつも、僕が薔薇を誉めてやらないからって、拗ねてるんだから」
 拗ねている、と聞いて、サリファは不思議に思った。
 女王さまといえば、サリファの住んでいた村にまでもその名が響いている名君だ。女王さまのおかげで、今のフィアラルの平和があると言ってもいい。
 数年前、大きな戦があったのだ。サリファはその頃まだ五歳にもならなかったし、中央から離れた村に母とふたりで暮らしていたから、どんな様子だったのか、本当のところはわからない。けれども、その戦で先代のフィアラル王が魔物の王に殺されてしまったことと、女王さまが神秘的な力で魔物たちを追い払ったことは聞き知っていた。
 そんな、まるで女神さまのような方が拗ねているだなんて、サリファには簡単には信じられそうもなかった。
 サリファの手を引いて歩いていたラティスが急に足を止めたので、サリファは彼の背にぶつかってしまった。抗議しようと顔を上げると、ラティスは神妙に頭を垂れている。目の前に、ラティスによく似た黒髪の女性が立っていた。
 女王さまだ。直感し、サリファもラティスにならって頭を垂れた。
「女王陛下、本日はご機嫌もうるわしく……」
「おやめなさいな。公式の場でもないのに。顔を上げてちょうだい」
 ラティスの口上をさえぎって、女王が言う。女王らしくない口調に、サリファは一瞬、自分がだまされているのではないか、などと考えた。けれども、そんなことをしてもなんの益もない。どうしようか迷ったけれど、好奇心に負け、結局は顔を上げた。
 女王はサリファに目を留めると、ふんわり微笑む。サリファもつられて笑みをこぼした。
「その子は誰なの?」
「サリファだよ。辺境の村で殺されかけていたから、連れてきたんだ」
 答えるラティスの口調はすっかりもとに戻っている。先ほどの、本物の王子さまのような口調では、もうなかった。サリファはそれを少し残念に思いながら、背筋を伸ばした。自分のことが話題になっているのだ。顔を上げないわけにはいかない。
「こんな小さな女の子、連れてきて、どうするつもりなの? 母親だって心配しているでしょうに」  女王が細い眉を寄せる。
「母はいません」
 咄嗟に、サリファは言った。
 ラティスと女王がはっとサリファを見る。サリファは続けた。
「母はずいぶん昔に亡くなりました」
「そうなの……ごめんなさいね。つらいことを思い出させてしまって」
「いいえ。あまりよく覚えていないんです。だから、かまいません」
 サリファは明るく言った。女王の顔を曇らせたままではいたくなかったし、なにより、本当に母のことはよく覚えていないのだ。
 サリファが十歳くらいの頃に、母は亡くなったのだったような気がする。気がする、というのは、サリファ自身、よく覚えていないのだ。母が亡くなった、というのはわかるのだけれど、どうして亡くなったのだったか、それがいつ頃だったのかなど、詳しいことを思い出そうとするととたんにわからなくなってしまう。
 だから、悲しいのか、と問われると、よくわからない、としか答えようがない。実感がないのだ。  サリファの沈黙を悲しみをこらえているためと取ったのか、ラティスが頭をなでてくれる。同い年くらいのラティスにそうされるのはなんだか変な気もしたが、サリファはおとなしくなでられていた。
「僕はサリファをそばに置こうと思う」
「私を?」
 女王がなにか言うより早く、サリファは言った。
 いったい、なにを考えているというのだろう。サリファはただの村娘だ。しかも、魔女と呼ばれ、蔑まれていた。それをそばに置こうなどとは、まったく、冗談にもほどがあるというものだ。なんの目的もなく、サリファのような娘をそばに置いて、ラティスになにかプラスになる部分があるとはサリファ自身にすら思えない。
「今日はそれを報告したくて。内緒でもよかったけど、一応、言っておいた方がいいだろうから」
「いつだって、私の言うことなんか聞かなかったというのに、いったいどういう風の吹きまわしかしら?」
「サリファはあの村で、魔女と呼ばれていたんだよ」
 ラティスがそれを言った瞬間、女王の顔色が変わった。淡紅色のうすいくちびるが、真っ青になる。
 サリファはわけもわからず、ラティスと女王の顔を交互に見た。やはり、魔女と呼ばれるような忌まわしいものは、そばに置いておけるわけがないと、そういうことだろうか。それならばいいと、サリファはわずかに安堵した。
 こんなきらびやかな場所では、サリファは息がつまってしまうだろう。サリファにはあの小さな村でひっそりと息を殺して暮らすのが似合っている。
「……そうなの」
 女王はドレスのすそをひるがえすと、薔薇の中へ分け入った。やがて、小さな赤い薔薇を一本たずさえて、戻ってくる。
「これを」
 目の前にうやうやしく差し出されたそれを、サリファはわけもわからぬままに受け取った。
 開いた花弁に鼻を近づけると、濃い薔薇の香がつんと匂った。サリファは薔薇を胸元近くに持ち、顔を上げた。
「どうして、私にこれを」
 女王はかがんで、サリファに目線をあわせる。サリファは息を呑んだ。ラティスと同じ青い瞳から、目がそらせなかった。
「せめて、あなたの慰めになればと思って」
「私の慰め、ですか? 母のことなら、本当に大丈夫です」
「そうではないの」
 いったい、どういうことなのだろう。
 女王さまともあろう方が、サリファと目線をあわせて話をしているだけでも驚きだというのに。わからないことがありすぎて、サリファはすっかり混乱してしまった。
「いつか、わかるときが来るわ」
 言って、女王はサリファから離れた。
「じゃあ、そろそろ戻ろうか」
 首をひねっているサリファを、ラティスがうながす。
「失礼します、女王陛下」
 サリファは女王に頭を下げて、ラティスのあとを追った。
「ねえ、私はなんなの? どうして女王陛下が私にあんな態度をとるの?」
「まだ知らなくてもいいことだよ。そのうち、わかる」
「そのうち、なんていやよ。私は今知りたいの」
「我侭だなあ。とにかく今は、ゆっくり休んでここに慣れることだよ。これからは、ここが君の家になるんだから」
「まさか私をそばに置くって、本気なの?」
「もちろん」
 ラティスがあまりにも当然であるかのように口にするので、サリファはあっけに取られてしまった。
「私には利用価値があるのね?」
「面白いことを言う子だなあ」
 ラティスはちょっと首を傾げると、サリファを連れて物陰に入った。あたりを見回し、誰もいないのを確かめてから、おもむろに服を脱ぎ始める。
「な、なにをするの!?」
 サリファは両手で目をおおった。いったい、こんなところでなにをはじめる気なのだろう。
「目を開けて」
「開けられるはずがないじゃない!」
 サリファは悲鳴を上げた。けれどもラティスに手をはずさせられる。
 ぎゅっと目をつぶっていたサリファだったが、やがて観念してうっすら目を開けた。
 ラティスは上半身裸になって、サリファに背を向けている。細いものの、必要は筋肉はしっかりついている、戦いを知っているものの身体だった。
「いったい、どうしたっていうの」
 サリファが口にした瞬間、ラティスの肩甲骨が不自然に盛り上がった。肉を破り、そこから翼が生えてくる。
 不思議なことに、血は一滴もこぼれなかった。翼はみるみるうちに成長を遂げ、飛べそうなほどの大きさにまでなる。
「これが、僕が君を連れ帰った理由だよ」
「……私には、翼なんて、ないわ」
 やっとのことでサリファは答えた。白い翼に見ほれていたのだ。
「でも、僕たちはよく似ていると思うよ」
 ラティスはまた服を着ながら言う。
「僕の父は――先代の王は、僕と同じような白い翼を持っていた。僕は異形と人の間にうまれた子なんだ」
「そのどこが私と似ているというの?」
「みんな、僕が異端だってことを知ってるんだ。王子だから、誰も表立っては言わないだけで、人々は僕を恐れているよ」
 すっかり服を着てしまうと、ラティスはまたサリファの方を向く。不思議なことに、あんなに大きな翼が、すべて服の中におさまってしまった。はじめと変わるところはどこもない。
「あなたは、私をあわれんでるのね。同類として」
「多分、そうだよ。失礼だと思う?」
「思わない。でも、とても不思議なの」
 サリファはラティスの両目を見すえた。
「私はあなたになにもしてあげられないわ。なのに、どうして私をあわれんでくれるの」
 そこがサリファにはよくわからなかった。
 はじめてなのだ。今まで誰もサリファをあわれんでくれたことはなかったし、声を上げすらしないのに目を止めてくれたこともなかった。
 それなのに、ラティスは自分からサリファに目を止め、たくさんのことをしてくれた。サリファがなにかを返すことなど、できそうにもないほどの人であるのに。
「君は傷ついている小鳥を拾うときに、あとでなにか恩返ししてくれるかどうかを考えるの?」
「……考えないわ」
「同じだよ」
 言うと、ラティスは歩き出す。サリファもおとなしくそれに従った。
 ラティスはそれ以上、サリファと問答をする気はないらしく、すっかり黙り込んでしまう。
 サリファもどう言っていいのかわからず、黙って歩いた。
 サリファだって、他の生きものに情けをかけるときには、恩返しを望んだりはしない。自分がやりたいからやるのであるし、もしかしたらそれは相手の迷惑になるかもしれないからだ。
 でも、誰かが自分に向かって、そんなふうに思ってくれることがあるなどとは、サリファは考えたこともなかった。
 自分は誰からも疎まれ、蔑まれ、いないものとして扱われるのだと思っていた。
 たとえ打たれたとしても、いないものであるよりはずっとましであるのだと、ずっと、思っていた。
 それなのに、ラティスはサリファを他の人間と同じように、あわれんでくれるのだ。不思議な気分だった。
 そうしてふたりで歩いているうちに、もといた部屋にたどりつく。ラティスは扉を開けて、サリファを先に中へ入れる。
「本当に、今日はもう休んだ方がいい。明日からは誰か人をつけて、ここで暮らしていくために必要なことを教えさせるから」
「……ええ」
 サリファは気もそぞろにこたえた。
「じゃあ、おやすみ」
 ラティスは苦笑すると、サリファをそこに残して行ってしまう。
 たしかに少し疲れた気もするし、もう眠ろうと寝台に上がりかけて、サリファはまだ上着を借りっぱなしだったことに気がついた。サリファは上着を丁寧にたたんで、枕元に置いた。
 そうして、やわらかなふとんの中へもぐりこむ。とたんに眠気が襲ってきた。
 サリファはなかば夢にのまれながら、自分になにができるのだろうと考えた。
 やはり、ただなんの恩返しもしないまま、いろいろとしてもらうばかりではいけないように思うのだ。
 けれども、うまい考えは浮かばない。
 ラティスはサリファを自分と似ていると言った。けれど、サリファよりもずっと、たくさんの人にラティスは囲まれているのだろうと思う。サリファよりもずっと、たくさんの人に愛されているのだと思う。
 だって、あんなに優しそうな人なのだ。サリファのような人間を、なんの見返りもなく助けてくれるような人なのだ。それがどうして、愛されないわけがあるのだろう。
 けれども、ラティスはとても辛そうだった、と思った。
 人々はラテイスを恐れているのだという。あんなに美しい翼のある人を、どうして人々が恐れるのか、サリファにはちっともわからないけれど。
 そうして考えているうちに、サリファは完全に寝入ってしまった。そうして夢すら見ずに、ただひたすらに眠った。



 サリファが目を覚ますと、まだラティスはいなかった。
 やはり二度ともラティスがいたのは偶然だったのだと、サリファは思った。
 けれども、枕もとにはラティスの上着は既になく、代わりに真新しい服が置いてあった。
 広げてみると、簡素ではあるがドレスのようだ。簡素であるとはいっても、肩のところがふくらんでいるし、スカートはすそが大きく広がっている。動きにくそうだ。
 とりあえず、せっかく用意してもらったものなのだから、身につけないのも悪いと思い、サリファは夜着を脱いでドレスに着替えることにした。
 ドレスなど着るのははじめてで、しかもあつらえたようにサリファの身体にぴったりしていたので、着替えには随分手間取った。
 けれどもなんとか着替えを終えて、サリファは壁際にひっそり置いてある姿見の前に立った。
 絶望的な気分になった。
 まったく、なんて似合わないのだろう。
 長い金髪は寝乱れてぐしゃぐしゃだし、ドレスにもあちこち皺が寄っている。
 なにより、着慣れていないのがサリファ自身にすらひと目でわかるのだ。なんともぎこちない様子だ。
 こんなかっこうでラティスの前に出なければならないのかと思うと、サリファは気が重くて仕方がなかった。
 自分はやはり、どこまでいってもただの村娘でしかないのだ。こんなドレスではなく、もっと男の子が着るのに近い服を着て、薪を割ったり荷物を運んだり、そういう生活をするのが似合っている。  そう考えて、サリファはふと、思いついた。
 自分は女の子であるけれど、それにしては力のある方だ。
 なにより、魔法だって使える。今はまだ、ほとんど役に立たないだろうけれど、がんばればもっと強くなれるだろう。刃物や弓の扱いだって、狩りができる程度には慣れている。
 女として窮屈に生活するよりは、男として、ラティスの役に立てばいいのだ。その方が、こんなドレスを着るよりも、ずっと自分に似合っているようにサリファには思えた。
 そのとき、ノックの音が聞こえた。サリファは振り向いて、どうぞ、と言った。
「もう起きてたんだ。おはよう」
 入ってきたのはラティスだった。昨日着ていたのとよく似た、けれどもいくぶん簡素な服を着ている。
「よく似合ってるよ」
 ラティスはそう言ったけれど、それがお世辞であることくらい、サリファにもすぐわかった。気遣ってくれているのだと思うと、サリファはなんだか恥ずかしくなった。
「ねえ、なにかナイフとかはさみとか、そういうものは持ってない?」
 恥ずかしさを隠すために、サリファは早口に言った。
「持ってるけど……なにに使うの?」
 ラティスは懐から細かな装飾のほどこされた短刀を出し、サリファに渡す。サリファは短刀をさやから抜くと、左手で長い髪をひとつにまとめた。そうして、一気に、肩ほどの長さになるように断ち切った。
「なにを……?」
 ラティスがつぶやく。サリファは切ってしまった髪を短刀とともに胸の前に捧げ持った。
 母から伸ばすように言われて伸ばしていた髪だ。もう、随分長いつきあいになる。そんな感傷的な気分がわきおこったのは一瞬だった。サリファはすぐに感傷を振り払い、顔を上げた。
「私は女であるのをやめるの」
「いったい、なんでそんなことを考えたんだい」
「あなたは私をあわれんでくれたわ。だから、私はあなたになにか返したいのよ。私があなたを守るわ。もっと強くなって、あなたと一緒に戦に行くの」
「そんなこと、しなくたっていいんだ」
「私が決めたの。私がそうしたいから、そうするの。あなたが拾ったのはサリファという女の子ではなくて、男の子だったと思ってちょうだい。新しい名前はあなたが決めて」
 サリファはラティスを見つめた。
 これ以外、サリファにできることはないのだ。受け入れてもらえなかったら、もう、どうしたらいいのかわからない。
「君の名は、シャルだ」
 しばらくして、ラティスがため息まじりに言った。
「シャル、君の選んだ道ははじめに僕が示した道より、ずっと険しい道なんだよ。本当にいいんだね?」
「かまいやしないわ」
「シャルなんだから、その話し方は変だよ」
 指摘され、シャルは口を抑えた。
「そのドレスももう無用だね。別の服を用意させなけりゃ……ああ、それに教育係は女官じゃなくて武官でないといけないし……」
 ラティスは腕組みをし、そらを見ながら口の中でもごもごとつぶやいていたが、シャルの方を向く。
「とにかく、おいで。とりあえずは僕の服を貸すから。そうしたら、教育係を探しに行こう。今日は忙しいよ」
「はい。ごめんなさい、忙しいのに」
「いいよ。その分、あとで働いてもらうから。さあ、急いで」
 シャルはドレスのすそを持ち上げると、ひとつに縛ってしまった。不恰好だが、これで随分動きやすくなった。
 ラティスはシャルの返事を待たずに、もう歩き出してしまっている。
 シャルはラティスを小走りに追いかけた。
「走るときには音を立てないこと!」
 即座にラティスから注意が飛んで、シャルは笑顔で「はい!」と答えた。